訃報 加畑幸三郎氏 S39 年卒
平成20年1月9日逝去、肺炎

1月12日(土)加畑君のご葬儀が執り行われました。
前日の通夜に引き続き多くの参列者がお見送りにお出ででした。京都の この季節は時雨れることが多く、当日もそのような中でした。斎場は、 御遺族のご配慮なのでしょう、祭壇もセンスが良くスッキリしておりま した。生花は1種類で纏められ見た目も整然とし、本当は何種類もの生 花があったからしょうが、お気を使われてこうしたのでしょう。

加畑氏夫人、喪主の貴之氏、二男、長女、氏の姉上らご親戚多数を代表 して、長男貴之氏のご挨拶は、氏を送るに相応しい心のこもったもので、 加畑夫妻の子供への教育がきちんと出来ているなと強く感じました。

加畑君とは4年間セカンドで一緒でした。内山氏をトップから引っ張り、 無理やりパトリに据え、卒業は三人でした。

荻野氏のメールにもありましたように、彼は誠実、温厚そのものでした。 出過ぎず控えめでおよそ人と争うなどと言うことは想像も出来ません。

卒業後は京都に帰られ、後から聴いた話でしたが、いろいろご苦労をされ て会社「綺麗や」呉服店を作り、家族、社員を養ったようでした。業界は 続けるのが難しい厳しい時代になり、会社を整理されました。しかし、業 界仲間内に人望があり、手伝いに借り出されていました。きっと氏の人当 たりの良さ、見識は仲間内にも必要だったのでしょう。急なことだったの でやり残したスケジュールがあったと思います。

彼がピアノ演奏を趣味にしていたことはご存じ無い人が多いでしょう。
ショパンを弾いていたのを聴いています。長女が成人して止めたあと、そ の先生に子供たちに交じって習いに行きおおよそ小十年になります。
私は何時も電話で話をして、最後には必ず練習しているかと 聞いていま した。氏がピアノを習っていると聞き、これは先を越されたなと思いまし た。自分自身、西田敏行のあの歌「もしもピアノが弾けたなら」を聞いた 時から、ピアノを習いたいと密かに思っていたからです。

田中さんのメールにも有りましたように、彼の母上が施設に入っておられ、 毎月、生地の丹後まで2時間余り自家用車で走り、見舞い、母上の家の面 倒を見て京都へ帰ると言う大変な生活を何年も続けていました。体がきつ かっただろうなと思います。親孝行の見本です。

佐野君を中にいれ、結婚式に呼び、呼ばれた仲でしたから。  私が定年後 に直ぐ、彼の近くに住むようになったのも、深い縁だったなと今更ながら感 じます。グリーのことでは何でも相談して対応していましたから、 これか ら自分はどうしらよいかと案じます。
思いつくままに並べましたが、今は唯、ご遺族がお幸せに暮らせるようにと 願うのみです。
加畑君、ありがとう。  安らかに・・・。
合掌・合唱 かな     2008 1月   近藤 恭