合唱漫遊記 −海外赴任の折々に− その7〜その9
<その7> 暴動の後 (クアラルンプール男声合唱団)
2002年、私はそれまで約35年間、勤めた企業に別れを告げ、活動舞台をカンボジアに移すことになります。独立行政法人・国際協力機構、つまりJICAを通してカンボジア文化芸術省から「国際文化交流のアドヴァイザーをしてくれないか」という、願っても無い提示を頂いたためです。
私の仕事の担当大臣はシアヌーク国王の長女・ポパデヴィ王女でした。
おかげで私はその後、4年間にわたって、アセアン諸国はじめ日本から来た芸術グループとカンボジア伝統芸能の文化交流やアンコールワット展の日本開催実現など、カンボジアの文化活動の一端をお手伝いする事ができました。
2002年の暮れが迫ったある日のことです。在プノンペンの日本大使館から、大使が紹介したい人がいるので公邸に夕食に来る様にと電話で伝言がありました。当時の小川大使は文化活動に非常に熱心で、カンボジアに誰一人知る人のない私には非常にありがたく貴重な存在でした。夕方、大使館に伺うと、大使が紹介してくれたのは、マレーシアのクアラルンプール男声合唱団の団長とマネージャー役という二人の日本人でした。団長のN氏と小川大使は大使の前任地からの知り合いで、その伝手で彼らのプノンペン公演の可能性を打診しに来ていたのです。
食事をしながら談論風発するうち、N氏が私の高校(新潟高校)の後輩と判って、話は一挙にまとまりました。「よし、それなら来年、ぜひ、やりましょう」。時は翌年2月1日、場所は大使館の多目的ホールと決まりました。
私の高校時代はまだ旧制新潟中学の名残りが濃く、男子が圧倒的で、女性は(才女ばかりでしたが)1割そこそこ、音楽教育など見向きもされぬ校風でした。混声合唱グループもあるには有りましたが、私たちは女と一緒に歌うなんて、という硬派気分とやっかみ半分の複雑な気持ちで、楽しそうに歌う連中を指をくわえて見ていたものでした。
N氏も高校時代はレスリングで活躍し、同志社に入って男声合唱の道にはまり込んだということでした。クアラルンプールには、彼のほかにも関学グリーの指揮とソロで伝説的存在のK氏や国立音大出のベース、同志社グリー時代のマネージャーと男声合唱の経験者がぞろぞろいて、現地で活発な演奏活動を行っているとか。団長に同行したマネージャーも元アメフト選手という重量級で、後日、プノンペンでこの猛者連相手に飲んだビールの量はまさに鯨が三頭、店の在庫を飲みつくすほどの壮絶さでした。
年が変わった2003年1月19日朝のこと。
出勤途中にタイ大使館の前を車で通り過ぎと、10名ほどの学生らしい若者が恥ずかしそうに小さなプラカードを持って大使館の門の前をぐるぐる歩いている光景が目につきました。人数も少なく、おとなしい動きだったので、大して気にもかけずに勤務先に向かったのですが、昼過ぎ、町に出ると様相が一変していました。
国旗を背負ったオートバイがあちこちで暴走、タイ大使館の前には群衆が集まり、異常な雰囲気が漂い始めているのです。夕方になると、タイヤを焼く黒煙で、さらに険悪ムードが高まり、群衆は増える一方です。ところが、警備の警察はひと握りほど。細い鉄柵に囲まれた大使館を危惧しながら帰途についたのですが、不安は的中しました。
暗くなるにつれ事態は激化し、とうとうタイ系のレストラン、ホテルそしてタイ大使館の焼き討ちという暴動に発展したのです。なんでも「アンコールワットはもともと、タイ人のものだった」というタイ女優の発言が発端ということでした。日頃はおとなしいカンボジア人ですが、豊かな隣国をねたむ屈折した劣等感が胸の内にマグマのように蓄積され、それが一挙に噴出したのでしょう。焼き討ちの背後には、組織的、政治的な動きもあるとの見方もありました。
翌日から、タイ大使館、隣接する日本大使館、私の勤務先文化芸術省に通ずる道はバリケードと大型戦車で封鎖されました。一方、演奏会はどんどん近づいてきます。演奏会まであと3日というに時になっても、大使館に近い交差点には、戦車がドーンと道をふさぎ、演奏会場にたどりつけそうにもありません。
こんな状況下でしたが、小川大使は「安全は保証する、ぜひ計画を実施してほしい」と心強い安全宣言を出してくれました。
初めは尻込みしていたクアラルンプールの一行も、この強い招請に、結局、予定者一名を欠いただけで全員が参加してくれたのです。
それでも聴衆が大使館ホールに来られなくては大変です。私は前夜、明日は思い切って戦車の隊長に大使館までの道の出入りを特別許可してもらおうと決心しました。翌朝、覚悟を決めて現場に行くと、何と、あのドデカイ鉄のかたまりは姿を消し、バリケードも外されているではありませんか。たまたま時間的にそういう時期だったのでしょうか。あるいは、日本大使館が動いてくれたのでしょうか・・・。ともあれ、私は天を仰いだものです。
演奏会当日、会場はカンボジア在住の日本人と現地のカンボジアの人々で満員の盛況でした。私はもちろん、トップテナーの助っ人としてステージに立ち、カンボジアで思いも寄らぬ男声合唱のハーモニー
を楽しむことができたのです。
クアラルンプール男声合唱団プノンペン公演 2003年2月1日 日本大使館多目的ホール
<その8> カンボジアの子供たちを歌唱指導
カンボジア暮らしに慣れ始めたある日の夕方、家の近くの小学校の校庭から子供たちの声が聞こえてきました。きちんと整列して一生懸命、声を張り上げているのですが、さて、歌なのか、呪文なのか・・・。どうやら終業時に国歌を斉唱しているのでは、と思い当ったものの、そのてんでんばらばらさ加減が強く印象に残りました。
その後、折あるたび、ほかの学校の様子にも注意していましたが、何を歌っているのか判然としないどこも似たり寄ったり。事情を聞くと、カンボジアの学校では子供たちに音楽を教えていないというのです。
一般に、この国の音の環境は劣悪そのものでした。音は大きければ良いと考えているのか、街頭で流す冠婚葬祭時の大音響はひどいし、テレビやラジオの音質に対する無感覚さも辟易とするほど。何とか子供達だけでも正しく、きれいに国歌を歌ってもらいたい、の思いが募りました。
そこで、伝手をたどって日本の文科省にあたる教育青年スポーツ省の長官に思い切って面会を申し込んでみたのです。会ってくれた長官に、バラバラにしか聞こえない子供たちの国歌斉唱の印象を述べ、「感受性の強い年ごろに音楽を学ぶ大切さは読み書き・算数に匹敵する」と、欧米や日本の例を挙げて強く訴えました。設備や人材等の問題があるので、音楽をカリキュラムにすぐ取り込むのは難しいだろうが、私の滞在期間中は、課外活動として子供たちに歌の楽しさを伝え、国歌を正しく歌えるよう手伝いたいと申し入れました。
話を聞いた長官は「よくわかった。あなたの申し出でに感謝し、活動の支援をしましょう」と、即刻、側近に私が指導に行ける学校の選定、それぞれの校長への連絡を指示してくれました。
本来なら私の任務は文化芸術省の業務に限られ、他省管轄の活動は、いわばイエローカードでしたが関係筋には、ボランティア活動として目をつぶってもらうことにしました。
これが私のカンボジアの子供たちを歌唱指導することになる始まりです。
初めは国歌を国歌らしく斉唱するという目的でしたが、少しずつ合唱そのものの練習に重きがかかっていきました。
もともとカンボジアには様々な民謡があり、大人も子供も器用に唄うのです。たいていは単旋律で、音を重ねる合唱や輪唱の形式はほとんど聞いた事がありません。(例外もあります。ラタナキリという山岳地域の少数民族による見事な輪唱にはびっくりしました)。
音楽教育を受けた事の無い子供たちですから、ドレミの音階はおろか、私が出す音の音程を声に出す事すらできません。とんだお荷物を引き受けてしまったかな、とチラッと悔やんだりもしました。しかし、子供達の吸収力は大したものです。辛抱強く、口移しペースで繰り返し、教えてゆくと、みるみる進歩、学校によって差はありますが、二ヶ月を過ぎたころにはクメール語や日本語の簡単な二重唱を歌える様になりました。
この成果は、プノンペンで年に一度コンクールの形で発表されました。私の在任中行われた、このイヴェントは延べ3回にわたり、プノンペン市内の中学校(セカンダリースクール)のほとんどが参加したことになります。
在任中の3年間に彼らに歌ってもらった曲は、日本語の「ふるさと」「埴生の宿」「夢の世界」、クメール語の「舟歌」「クメールの歴史」で、いずれも二部ないしは三部合唱でした。
私に協力してくれた教師達の活動ともども、これらの合唱活動は現地のマスコミのみならず、NHKも二度ほど取材に来て、日本でも紹介されました。
せっかっく盛り上がった合唱機運でしたが2006年、私の帰国とともに、活動が中断してしまい、帰国後は悔しい思いでいました。ところが、幸いなことに、私の現地での活動を聞きこんだ「学校を作る会−GHP 」というNPOから2007年11月、このNPOが寄贈した学校で合唱指導をしてくれないかという申し出があったのです。GHPは活動歴が16年近くあり、2008年時点でカンボジアに220棟の学校を建設して寄贈、教員の養成にも力を注いでいる立派な団体でした。
お陰で私は2008年8月から3ヶ月間、再び巡回指導に行くことができました。前回の合唱指導は首都プノンペン市中心でしたが、今回は地方の学校を主体にしました。
凸凹道を5時間、へとへとになってたどり着くような僻地校をたくさん訪れ、生のカンボジアに触れる事ができました。環境は劣悪でしたが、そんな中でも音楽センスの際立つ子に出会います。音楽の才能なるものは環境ではない、我々の目ではわからぬ天の差配があると強く感じた次第です。
カンボジア再訪では、うれしい事が三つありました。
その一つは、私の歌唱指導の申しれを快諾してくれた教育青年スポーツ省長官、H.E.Mr.Im Sethyが教育青年スポーツ省大臣に昇任されていた事です。(次回訪問時には是非お会いしてお祝いと御礼をと思っています)。
次は、僻地を巡回指導中、プノンペン市に演奏公演に来ていた大阪音大出のオペラ歌手たちと会う機会があり、挨拶もそこそこ「あの山田さんですか?」と聞かれて面食らったことです。彼らがプノンペン市内の中学校を訪問した際、生徒たちがきれいに「ふるさと」を日本語で合唱するのに、びっくりして訳を聞くと、昔、ヤマダという人から教わった、と教えてくれたというのです。4年近くたっているのに、彼らがまだ私の名前が覚えていてくれたことを知って、胸がジーンとしてきました。
3つめは、青少年オーケストラのその後でした。
私の文化芸術省勤務時代、カンボジアにはプロ・アマ問わずオーケストラはありませんでした。王立芸大、政府高官、現地財閥の要人等、だれ彼かまわず音楽に関係ありそうな人や興味を持ってくれそうな人に会うたび、私は「オーケストラの数がその国の文化度の尺度になるのだ」「その礎は今からつくらないと間に合わない」と必死にアピールしました。そうしたことが機運となり、青少年オーケストラ(Angkor Youth Orchestra )という組織を立ち上げるところまで何とかこぎつけ、日本に戻ったのです。
帰国後も日本から中古楽器を送ったり、ボランティアによる演奏指導派遣等の支援を続けて来ました。そのオーケストラが、どうやら現地で認められ始め、演奏技術も予想以上に向上している事がわかったのです。
「タネをまいた甲斐があった」。胸をさすり、胸を張ったプノンペン再訪でした。
合唱練習風景 | アンコール ユース オーケストラ 2007年12月31日 国際青少年オーケストラコンサート アンコールワット内特設ステージ |
<その9> 「千の風」に涙したアジア日本人男声合唱祭 (マ−マ−ヨ男声合唱団、バンコック)
暴動騒ぎの中、カンボジアに遠征してきたクアラルンプール男声合唱団については前々回、書きました。2005年2月、この合唱団の音頭取りで隣国タイのバンコックで「第一回日本人男声合唱祭」という催しが開かれることになったのです。同合唱団からは「山田さんもうちの団で参加しないか」と誘われました。しかし、週末ごとにクアラルンプールまで練習に行くのは大ごとです。で、代わりにタイの「マ−マ−ヨ男声合唱団」のメンバーとして特別参加させてもらいました。バンコックならプノンペンから一時間弱で行けます。
有名なチェリスト・ヨーヨーマをもじり、少々ふざけた名前のこの男声合唱団はバンコックにある「日本人混声合唱団」の男声メンバーで構成されていました。 日本で合唱経験のある方たちが中心の20名ほどのグループです。
合唱祭には香港、クアラルンプール、ジャカルタ、マニラそしてバンコックと、それぞれの都市で活動する邦人男声合唱団が参加して、にぎやかで楽しい催しになりました。各都市在住のメンバーのみならず、日本からOBメンバ−が参加したところもありました。
マ−マ−ヨ男声合唱団は多田武彦さんの定番「柳川風俗詩」を演奏しました。あれほど有名で、しょっちゅう耳にする曲なのに、なぜか私は舞台ではこれが初体験。とても良い思い出になりました。
思い出といえば、もう一つあります。
この演奏会の前の月、インドネシア沖の大地震による大津波で、タイのプーケットでも大勢の犠牲者が出たことは皆さんもご存じだと思います。その中にタイ在住日本人家族も含まれていたこともあって、合唱祭のアンコールでは、犠牲者への慰霊をこめ「千の風」を合同演奏することになったのです。
私はこの時まで、この歌を知りませんでした。初めて出会う鎮魂の歌がとても新鮮に聞こえたのです。まして、慰霊の感情を込め、歌詞をかみ締めて歌っていたため、不覚にも涙が止まらなくなってしまいました。
ところが、任務を終え、日本に戻るってみると、何ともいやらしいバリトンがこの曲を歌って幅を利かせているではありませんか。バンコックでの印象が鮮烈だっただけに、私は何か汚されるような感じがして、何とも後味の悪い、複雑な思いがしました。
私のイヴェント参加はこの一回だけでしたが、催しはその後、クアラルンプール、マニラ、ジャカルタ、香港と毎年巡回の形で続いているようです。それにしても日本人はなぜ、男声合唱がこれほど好きなのでしょう。それぞれの国々の人々がどう見ているかも興味があります。もっとも、私は、世界中、どこへ行っても、同類がたくさんいるのはまことに喜ばしいこと、と一人悦に入っていますが・・・。
昭和40年度卒トップテナー
山田三千夫