合唱漫遊記 (S40年卒 山田三千夫)その1〜3

オーストラリア

 

1) 豪州の父 (シドニー男声合唱団、SMC)

2)オペラハウスの奇跡(シドニー合唱コンクール)

3) 酒場 のハーモニー(シドニースペインクラブ合唱団)

シンガポール

 

4) イタリアンサラダの注文(シンガポール シンフォニー コーラス、SSC)
5) 途切れぬ友情 (ザ フィルハーモニック コーラス、TPC)

アメリカ

 

 

6) アメリカの合唱祭 (ミズーラ、モンタナ州 TPC)

マレーシア

 

 

7) 暴動の後 ( クアラルンプール男声合唱団、K.L.M.C)

カンボジア

 

8) カンボジアの子供たちに合唱の指導

タイ

 

 

9)千の風に涙 ( マーマーヨ男声合唱団、バンコック )

<その1> 豪州の父 (シドニーメールクワイアー,SMC)

私が生まれて初めて飛行機に乗ったのは1969年、27歳の年でした。いきなり羽田からマレイシア-シンガポール航空、今のシンガポール航空の国際線に乗り込み、シンガポール経由でオーストラリアの地を踏んだのです。
戦後20年以上も経っていましたから、アジア人蔑視の白豪主義こそ色あせてはいましたが、戦争の傷跡はまだ完全には癒えていません。地方出張の折、町で道を聞くと、親切に教えてくれた別れ際「俺はニューギニアでお前の親父に首をはねられそうになったんだぞ」と言われたり、たまたまゴルフ場で出会った男から、武運長久の墨書に大勢の署名の入った日の丸を見せらせ、その意味を聞かれたり・・。「私は戦争の事など何も知らない」と言い逃れできない場面にも少なからず遭遇しました。
当時、シドニーは日本料理屋らしい店がたった2軒。150軒を超える店が建ち並ぶ今から思うと、まったく隔世の感があります。
私の仕事は商社で市場開拓でしたので、いわば知人・友人皆無の土地に単身、乗り込むわけですが、初めはどうやってこの土地になじもうか、途方にくれたものです。窮余の一策が合唱でした。合唱であれば現地の社会生活に無理なく入り込めるのでは、と思ったのです。 まず、歌に縁のある教会からあたってみました。三つ目の教会への電話だったでしょうか。可愛い女性の声で「私の父が毎週水曜日、歌の練習しているわよ」と、空港近くにある教会、Rockdale Congregational Churchを紹介してくれました。で、早速、出向くと、眼光鋭い小柄なお爺さんが出迎えてくれました。お名前はRichard Thew。もちろん、この時、この方が豪州音楽界のドンとは知る由もありません。Thew先生は教会のオルガニストとして著名であるばかりでなく、オーストラリアのオルガニストや声楽家の育成で広く知られる方であることを追々知ることとなるのです。
爾来、先生は、どこをどう気に入って下さったのか、私をあちこちの音楽会やパーティーに同伴させ、現地の演奏家や音楽家を紹介して下さったり、教会で日本の歌曲を歌わせてもいただきました。そして、とうとう結婚式を現地で挙げることになった私たちに、式の段取りから披露宴まで、何から何まで取り仕切って下さったのです。私をまるで自分の息子の様に可愛がって下さいました。
当時、豪州では一番伝統のある「シドニーメールクワイアー」に、他国籍のメンバーとして初めて受け入れてもらうことになったのも、Thew先生の後押しがあってのことです。この合唱団のメンバーは2m以上もある大男ばかり、50人ほどまるでラグビーチームに混ざった感じで、年配者が多く、唯一人、20代の私は子供扱いでした。分厚い胸板から響くベース系の低音は迫力がありましたし、テノール系はベースほど声量はありませんでしたが、馬力で歌いまくるスポーツ系の合唱団で、現地作品、英国世俗曲や民謡、へンデルの作品等のレパートリーを主に、シドニー近郊や田舎のタウンホールで巡回演奏を行いました。演奏会が終わると、観客たちが持ち寄った手作り料理のパーティーが用意され、演奏者も観客も一緒になってコンサートの余韻を楽しみました。
あれから35年、Thew先生も、合唱仲間のほとんども他界してしまい、今ではすっかりシドニーメールクワイアーと没交渉となってしまいました。でも、先生のお嬢さん、合唱団探しのとき、Thew先生を教えてくれたキューピッドのMrs.Rodenとは、今もクリスマスカードのやり取りをしています。
5年前、妻と二人でシドニーを再訪した際には、お宅を訪ね、美味しい手料理を頂きました。その折のことです。
ご立派なアルバムを出してこられたので、何気なく表紙をめくると、何と、私たちの結婚式から、現地で産まれた長男の写真、帰国後、折に触れてお送りした私たちの様々な写真が、年月順にきちんと整理されていたのです。ご両親が残された私たち家族専用の特別アルバムでした。胸あふれる思いで、生前の先生と優しい奥様を偲び、ページをめくったものでした。

Mr.R.G.Thew in 1973

<その2> オペラハウスの奇跡(シドニー合唱コンクール)

今や世界遺産となっているシドニーオペラハウスは、私の在任中1973年に完成しました。
その開会式のこと。あいさつに立った英国のエリザベス女王は開口一番、「このメッセージは私の父が読むはずでした」と切り出して、厳粛な式典会場を大笑いさせました。完成が当初の予定より実に10年も遅れた豪州人ののんびりさを、真面目な顔で皮肉ったからです。
毎年9月に開かれるシドニー音楽祭(Eisteddford)では様々な部門のコンクールが行われますが1974年度の合唱コンクールは、この出来上がったばかりのオペラハウスで開かれることになりました。
このためシドニーのみならず隣のヴィクトリア州の教会や大学、地域団体等、数多くの合唱グループがエントリーに殺到しました。
当時、私が所属していたレインコブ地区合唱団も、結果はどうあれ、一生の思い出として、オペラハウスで歌ってみようと、興味本位で参加を決めたのです。
本番当日、客先で出番を待っていた私たちは、続々、舞台狭しと並ぶ競争相手の圧倒的なボリュームにすっかり度肝を抜かれ、意気消沈してしまいました。私たちときたら、テナーが私を含めたったの二人!ベース4人、女性は総勢14人という、まことに変則的で、しかも超ミニサイズのグループだったのです。これでは、まるで、タイソン相手にリングに上がったモスキート級の試合です。
ようやく出番がきました。ステージにでたものの、ピアノが多人数編成に合わせて舞台下手に固定されていたため、ピアノの近くで歌う私たちは、幅広い大舞台のセンターからはるか離れたステージの端っこでの演奏という情けない羽目になりました。
それでも何とか豪州人作曲家による課題曲“Ireland Heart”,自由曲に英国ボーンウイリアムズの”牧歌“を無事に歌い終え、審査結果を待ちました。
審査では、公正を期すため、わざわざカナダから呼ばれた音楽博士の審査員長が、下位から順番に成績発表と講評を始めました。「すぐに私たちの名前が出て来るさ」。冗談を言い合いながら他のグループの成績と講評を聞き流していた私たちですが、10位、7位、5位と、どんどん残りが少なくなっても自分たちの名前が呼ばれません。少しずつ、みんなの顔から笑顔が薄れ、3位を過ぎても未だとなるや、緊張は極限状態。一同の顔面は蒼白、口もきけない状況でした。
「エッ、2位でもないの?」  「ウソーッ、優勝!」  「ブラボー」
みんなの驚きと喜びがいかばかりかは、ご想像がつくと思います。
1974年10月4日付け、地元ローカル紙 「The Ryde Weekly Times」は最も小さなチームの優勝を報じ 「このグループは87点の最高点で、非常に洗練されたプロ的なハーモニーを醸しだしていた」と言う審査員コメントを載せてくれました。私たち一同のなんと面映ゆかったこと。
あれから35年近く経ちました。手元に残っている、このローカル紙の黄ばんだ切抜きは、オペラハウスでの興奮と感激の瞬間を、昨日のことのように蘇させてくれる、これは私の貴重な宝物です。

The Ryde Weekly Times, October 4, 1974

<その3> 酒場のハーモニー(シドニースペインクラブ合唱団)

シドニー市中心のタウンホールの裏にあった5階建てビルは「スペイン人クラブ」でした。
スペイン本国からの出稼ぎ人のためのクラブで、一階がバル(ビールやワインを飲むバー)、二階がレストラン、その上は幼稚園、図書館、集会所等が入っています。
私はもともと、中南米赴任を前提に採用されたのですが、就職先の事情で豪州に「飛ばされる羽目」となっていました。
そんなわけでスペイン語で飲食できる場所がシドニーにあると知って、もう暇さえあればこのクラブに出入りしていました。
ある日、このクラブに合唱団ができると聞き、冷やかし半分で練習に顔を出したのです。
出かけてみて、びっくり仰天。指揮者に口答えするは、練習中に団員同士で取っ組み合いのけんかをするは、はたまた合唱と全く関係ないフラメンコをうなりだすは、、、あっけに取られることの連続でした。
メンバーには肉体労働者が多く、標準の?ラテン系より、更に血の気の多い人が集まっていたせいなのでしょうか?
そんな仲間でしたが、クラブのクリスマスパーティーでは、なんとかスペイン民謡を中心とした合唱を数曲、披露できました。 日本古謡の「サクラ」の簡単な二重唱も教え、プログラムに入れてもらったところ、本番の彼らは「サクラー、サクラー、ヤヨイノソーラーハー」ときれいにハモッテくれました。
とはいえ、ご紹介したようなメンバーの集まりですから、一回目の演奏会だけで、団は解散状態となり、私もその後、しばらくスペインクラブから足を遠ざけていました。
半年後のある夜、久しぶりにクラブに顔を出し、カウンターで飲んでいると、「ハロー、ミゲル!」〔私のスペイン語での呼称)と声をかけながら日に焼けたイカツイ男たちが私の周り寄ってきました。
それは練習中にフラメンコを歌いだしたり、けんかをしたあの悪オヤジたちでした。久しぶりの再会にビールの杯を交わしていると、何とフラメンコオヤジが「サクラー、サクラー」とそれも低音部の節で歌い出したのです。しかも他の悪オヤジ連中も、フラメンコオヤジに合わせて唱和しはじめるではありませんか。
主旋律はもちろん、低音部の旋律もしっかり覚えていて、彼等のハーモニーを聞かされた私は、まさに感激ここに極まれりの思いでした。どうしようも無い悪オヤジ達と思っていた彼らでしたが、いっぺんにいとおしくなってしまいました。
遠く故郷を離れ異郷の土地に出稼ぎに来ているイカツイ容貌のスペインのオヤジたちが、シドニーの酒場で日本の歌を合唱するという、何とも不思議な、そして感動的なシーンは、私のもう一つの大切な宝物となっています。

つづく

昭和40年度卒トップテナー
山田三千夫

前の記事

グリーが誕生した瞬間